F最終話



初めに
 これでいよいよ僕の書くブログは最後となります。読者のみなさん本当に長い間ありがとうございました。これまではブロガーとしての職務を果たすべく、求められているであろう文体でブログを書いてきましたが、最終話は「自分本来の文体」 書きたいと思ったのでそうさせてもらいます。なので特に面白くしようとか、短時間でサクッと読めるように書こうとかはしませんでしたので、そういう期待を 持っていた人はごめんなさい。文章については色々と思うところがあるかもしれませんが、最後ということで大目に見てください!
以下の論はブロガーがどうあるべきかについて、まとめたものです。僕がブロガーを始めた頃、ブロガーの在り方について、厳しい批判の声を頂くこともありました。そのことに付き、会長先輩から「Fのブロガーとしての哲学は何か?」と問いかけられたのですが、読者の皆様から頂いた鋭い批判に対する反省に基づき、会長先輩の問いに答えようとする形で、一年間ブロガーはどうあるべきかにつき考えてきました。以下は未完ではありますが、途中までの個人的見解をまとめたものとなっています。8000に及ぶ大作ですが、時間があればお付き合いください。


希求、被希求の統合的展開
 -演繹の実践的検証を踏まえて-

序論
 UTDSに於けるブログの位置づけについては種々の論が述べられてきた。ブログを歴史を紡ぐ一本の糸と見る論が存する一方で、寧ろ個人的な体験の発露の機会としての側面により焦点を当てた論の存在も看過し得ない程度に存在感を持ってきた。またより技術的側面をその要旨とする、活動に対して、一つの意味に於いてではあるが、最も合目的的に思われるような論の展開を求める声もまた広く聞かれる所ではあった。これら複数の論は各々特有の欠陥を抱え、また美点を有しており、 これら諸側面は双方にその根源的否定を許容することが無い程度には、その実体が各論の本質に根差していたために、却って複数潮流の相互交流は一層困難とならざるを得なかった。またこの困難を、一方では理由とし、また他方では、結果としながら、ブログが如何なるものを志向することを要請され、また時には内生的に志向すべきかの議論は、発展の機会を与えられてこなかった。詰まる所、複数潮流の相互拒絶と対置される形で定義される所の統合的発展というのは、望まれるべきものであるはずであるにも関わらず、現実に達成されてこなかったばかりか、実践的な方法に於いて望まれることさえもほとんどその実例を見ることはなかったのである。ここに思想の探究は停滞にその実際を置く帰結を見た。現実には、しかしながら、この論争に対する真実はその複数論の相克の場に見出されると考える。本稿に於いては、この前提に依拠し、第一にブログ執筆者とは何を志向すべきかについての考察を試み、第二にこの一結論に多く依拠する形ではあるが、後続の執筆者への僅かながらの示唆を提供することに努めたいと思う。

本論
  それではまず執筆者が志向することを要請されるところの方向性を、その存在に根拠を与えるところの礎に、より合致することを企図する形で模索したい。ブログ執筆者とは、思うに、その存在の正統性を、内発的に有するというよりは寧ろ外生的に付与される存在である。換言しよう。ブロガーは自らの執筆への衝動を充足させる特権を付与されているのでは決して無い。彼の職務は、より本質的には、時世潮流との相互対話を通じて、その要求を絶えず認識し、受容し、その解釈に基づいた反作用を通じて、また彼自身も彼が客体とする所の現実に主体的に関与するという、その一連の行為に於いて見出される。そしてここに於いて、彼が絶え間無き対話を要求される所の客体というのは、結局のところ、彼自身がその論の対象とする所の読者である。この点を鑑みれば、極めて明瞭な結論がここ で見出されることに異論は生じないだろう。即ち、執筆者は自らの存在と、今やその本質に於いて同値であるところの読者の声を、如何にそれが時に多様性に富み、時に相互矛盾的であろうとそしてこれは実際にしばしば相互矛盾的であるのだがその論に内包していくことを、その役割の付加としてではなく、中核として、受け入れざるを得ないのである。
  ここまでに、ブログ担当者の職務に枠組みを与える所の、いわば一般原則を概観した。さて次に、通例的疑問として以下のようなものが生じる。つまり、如何なる相互矛盾に、実際に直面するのか、という問いである。ここで、この論の理解をより容易にするため、読者層の多様性について少し立ち入って触れたい。本諸記事の読者は何も一二年部員に限られたものではない。より上級な学生乃至は既に本学を去られた人々は、その数に於いて、寧ろ下級な学生よりも読者としての多数派を形成している可能性は十分にあり得るものである。これに加え、読者層は、今やこの活動に内包される人々を越え、この活動に外接するところの集団にまで、その範囲を拡大しているという事実は特筆されるべきであろう。この集団には活動の構成員の保護者に加えて、より一般的社会人も含まれる。以上の点を鑑みれば、本ブログを通じての広報は、一般に今まで信じられてきた以上の影響力を、もしかしたら現実的側面に於いて有するかもしれない、という推論は、ある程度の根拠を有するものであるということができる。ここで現実的側面に於いて影響力が及ぼされうる所の諸集団についてより深く分析してみたい。
  一に執筆者がそれに対しての尊重を要求される集団について分析する。まず社会人を中心とした集団についてであるが、本活動はそもそも社会人の厚意の支援に、その活動の実効性の多くを依拠して存続してきた。その支援なくしての本活動の存在は、従って、現状に於いては、いささかも想像の余地を認めない。この事実を鑑みる限り、執筆者はその社会人に対する敬意と適切性を損しないという意味に於ける公共性と、その論の軽妙性との両立を、迫られるといえる。次に上級生並びに卒業生について考えてみたい。まず原則的に、本活動の礎を構築し、以て後続の活動を可能なものとした彼らの部に対する多大な貢献について、一般に執筆者は尊重の念を以て記事を書くという道徳的責務を負う。この点については議論の余地があるものではない。この道徳的責務の積極的受容は、執筆者の能動的意思の影響の及ぶことが許されるものではなく、寧ろその職務受諾の前提条件である。この原則に基づき、我々執筆者は遍く先代先々代等に対し、常に部の興隆をそれに相応しい形で報告するという実践的義務を有するのである。
  二に駒場生を中心とする集団について分析するが、この内部にもまた多様性が認められることは、疑義を挟む必要もないことである。まず二年生についてであるが、ここについては、多く執筆者は困難に直面したとの感を抱くことはないであろう。無論これは執筆者と他構成員との関係に依拠するものであるが、ここに於いてもしかしたら生じうるかもしれない困難はブログ担当の役職に固有なものではなく、彼の基本的人間生活に於ける困難と寧ろ重複するから、従って本論の対象とするものではない。
 次に一年生についてであるが、彼らについては、留意すべき点が時系列的に発現するという点が、他の構成員との間に、明瞭な差異として認められるとの感を有する。
  まずは新入生の勧誘という最も初期に於ける過程である。この過程ほど、執筆者が本活動団体を他に比して選好すべきであるとの論を展開する機会を与えられ、 また義務を負うことは、他には無い。ここで留意すべき点は二つである。一は、一般的大学生の選好に準じた形での本活動の提示であり、また一に、とはいえ、 本活動の特有性への好ましい側面からの焦点化である。前者は、所謂一般的大学生が、その大学生活に対し有しているであろう夢にやや迎合する形での本活動の提示であり、これは実際的効果を有することが証明されてきた。この手法の正当性については、詳しくは別論に譲るとして、ここでは簡潔に引用に代弁させるとすれば、「抑圧された自我による真実の自我への目覚め」(Rawls)が一根拠であるとは言える。であるから、執筆者としては、ここでは普段の論に於いて求められるのと少し違った趣を求められる。執筆者はこの時期においてのみ、現実生活非充足組から現実生活充足組への転換を、少なくとも文体の上では、求められるのである。
  とはいえ、しかしこのことは執筆者がその活動についてやや特徴的である点について触れることを何ら妨げるものでない。理想はその対極に位置する。本活動は、例えいささか深奥に見えても、実際その魅力はそれが深奥であることにも大きく依存しているのであり、この点を他活動との差異として全面に押し出すことは寧ろ奨励されるべきことである。ただし執筆者としては、この手法が将来の構成員にもたらすかもしれない心理的委縮効果について真摯に吟味することもまた忘れてはならない。
  次に第二の過程、即ち新歓期後について少し触れたい。この過程は、夏季頃まで続くものと解されるが、しかしこの範囲は絶対的定義が付与される類のものではない。ここに於いて、執筆者は一年生の活動を認識し公表し、また講評しつつも、不偏であることを以て、新入生の部への統合の促進化の過程を妨げることがないようにしなければならない。ここで具体的には写真の講評に於ける機知と配慮との葛藤に陥るのが通例である。
  そして第三の過程、即ち一年生が既に十分にその部の構成員として認知された後の過程、についても概観したい。ここで直面するのは結果の差異である。執筆者は今や不可逆的多様化の過程を既に経た人間集団をその論の対象としているのだということにここに於いて気付く。彼らの直面する現実は、彼らがそこに於いて抱く感慨と同じく、非同一性をその根幹に置くのである。これに伴う執筆者の困難は、さらに上級学生との要請と相まって、より複雑な様相を呈する。であるから、この点に付き、一旦独立した命題として以下に考察を試みることとする。
  上述した所の複数の先輩からの要請と他読者からの要請に於いて最も矛盾し、或いは矛盾しないにせよその並存に技術的、論理的困難を伴うと結論付けざるを得ない点は、諧謔をその本質とする記事と、ディベート活動への貢献をその本質とする記事の同時的要求である。無論両者は根源的には排反でない可能性もある。 諧謔は時に人を惹きつけ部の認知の向上につながる。最も部の認知の向上が好ましい形でなされるか、或いは否か、というのは未だ統計的には資料の存するところではなく、従って前者が後者を上回る限りに於いては、その最終的利得に於いては排反でない可能性もあるだろう。しかしこの議論は問いの本質ではない。多くブログに於ける諧謔は、その文体の文学的一貫性の要請という制約によって、論弁技術論等、ある一定の読者層がより本質的にブログの中核を為すべきとする所の内容に関して触れることを、理論的にはそうは思われなくても、しかし現実的にはしばしば妨げてきたのである。では執筆者はその要請に答えるべく、一切の滑稽さを排すべきかとの問いには、しかし肯定的解を付与する根拠を、私は遂に見つけることが出来なかった。ブログはある願望を有する読者の為に存するのと同程度に、他の願望を有する彼のためにもまた同時に存しているとの命題を効果的に否定することができなかったからである。無論これが私の個人的能力の欠如に帰せられるべき要因によって達した解である可能性は排除されるものではないから、その場合には、その私の見出すことのなかった理論の公表は大きく望まれるものである。
  さて、では如何にして両者は統合されるべきなのであろうか。辿り着いた解は単独ではなく、複数であった。一つの有り得る解としては、諧謔の妥当する範囲を 技術的に狭め、以てその妥当しなかった範囲に於いて、活動の構成員につき、より深刻化された形態で言及するという手法である。この為には、諧謔の無制限的拡張を防ぐため、簡潔な滑稽さを志向することが求められる。
  他の解としては、諧謔とその他との記事の分離という手法が考えられる。これは特に執筆者が直接には参加しなかった大会に於いて多用されうるものではある が、しかしその他の場合に於いても他の手法より有益な記事を創出することに資することは多くみられるであろう。手法は具体的には、感想文の多用である。かつて私は、ブロガーは各構成員に完全に配慮しそれぞれの成長や葛藤過程を描く存在であるべきだ、との論を述べられたことがある。これは完全に真実であり、 何ら否定するところはないが、ただなお問題として存していたのは私がそれを可能とするまでに完璧な人間ではないという点であった。多く人間は真実を隠蔽する者であるし、その内面は知り得るにしても、その知り得た内面は結局のところ修飾された言明の総和から推論された一解釈に過ぎない。以上の点を鑑みれば、 また私が自らに要請された所の論を自ら主張できるほどには完璧な人間ではないことを鑑みれば、最も真実に近い言明は私の観察ではなく、彼の直接の表明により発露すると考えられる。この考えに依る限り、感想文はブロガーが書く以上に、彼の成長や葛藤という要求される所の内容を満たすものとなるし、より真実に近いという点でその価値もまた比例的に向上するのである。加えて、感想文に於いてはしばしば、これは事実意図された結果でもあるのだが、非常に優秀な人材に委託することで、論弁技術論等について、さもなければ得ることのなかったであろう含蓄に富んだ洞察を引き出すことにもまた成功してきたのである。従って、これは、読者の要望に応えるにあたっては、一つの有効な手法であることが経験的に証明されたといえる。 
なおこの手法の正当性についても少し触れておきたい。一つの考えられうる批判はこうである。即ち或る人は、過度の委託はそれに比例する形で執筆者の役職放棄の程度を示唆すると考えるかもしれない。しかしこれは執筆者の根本的役割に鑑みる限り当たらない。一に執筆者はその目的を読者の声を反映する点に有する。 そして読者の要望はこれまで見てきた通りに、執筆者の声を聞くことではなく、別のところにある。であるから執筆者がその声により適う形を模索することは、 寧ろそのあるべき姿に適合的である。二に外部委託はそれ単体で一定の負荷を執筆者にも与えるものであるから、そこから生じる労働量は、なお執筆者の職務を 職務と呼ぶに相応しい程度に収まり得るとの指摘が可能である。そして第三に読者の声に関連し、執筆者に要請されたものの内実をより深く分析してみたい。執筆者は技術論等も書くべきとの声があることにつき、ブログ担当に指名されたことと、論辯について論ずることを可能にとする能力を有することは同値には成り得ない点への留意が必要である。論弁技術論は読者がそれを参照し、何等かの示唆を得ることでその真価を発揮するのであり、その可能性を有さない技術論の単なる掲載は、ただの虚飾としての役割以上を果たし得ない。この点を鑑みれば、執筆者に論ずるに値する資格が無いという前提に則ってではあるが、ブロガーの技術論への試みは、その本質に於いて失敗を運命付けられているといえるであろう。そしてこの失敗への対処としては、一に外部委託があり、二に組織の構造的改革具体的にはブログ執筆者選考の前提条件に論弁技術論を構築する能力を掲げ、これに値しない者を排除するという制度改革があげられるのである。後者がもしより好ましいのであれば、その実践は後世の手に委ねられるのであろう。そうでない限りなお外部委託は少なくとも準最適解としてはその存在意義を失わない。
  次に、多様な構成員への焦点化についても論考する。これについては、すべきであるが、実践の場において留意すべき事として、個人的にはあまり具体に踏み入った書き方をしないことが望ましいとの結論に至った。というのは、例え読者が各人の葛藤への知の欲求を有していたとしても、その欲求はブログに於いて同意なく執筆者の眼鏡を通じて描かれる人の、捨象的描写に対して抱く複雑な感情を、道徳的価値付けに於いて常に上回るものとは到底思えなかったからである。 ブログに登場する被写体は純然たる読者の客体ではなく、寧ろ最も貴重な主体なのである。であるから、彼らを描く際には可能な限り、その叙述された主体には 通じるがその他には通じないという程度の秘匿性が要求される。例え他の読者がより一層の公開性を要求したとしてもこれに屈する必要性はここには無い。これはその秘匿性がその描かれた人物に資する限りに於いて絶対的真実である。ややより一般原則的論となるが、ブログ執筆者は読者の声を反映すべき存在であるが、時に自らの良心に従って行動することも恐らくは許される。というのは、実践の依拠すべき道徳律が、その彼の属する共同体の善の構想に適合的であることを、彼に、その道徳性の前提として要求するからである。執筆者は全体の利益に、結局のところ、資することを使命とするのである。
  以上特に難解な命題への解を与えようとする試みの過程を追跡する営みを終了したところで、最後にそれほど理解を困難としないがなお重要である執筆者の諸原理について、後のブログ担当者の為に、簡単に触れておきたい。一は公共性の議論への補足となるのだが、公共性については写真の多様性と色彩配置や割付への工夫が重要となる。事実としては多くの読者はスマホ等を通じて短い通勤時間の合間に記事を読むことが多いのであるから、彼らへの配慮は責務である。
また実際初見の印象が全てを決するというのは、その合理性も相まって、現実に多く否定されることのない言明と思われる。
  二に速度であるが、これは非常に重要で、連載の休載は読者の期待への裏切りという形でブログ執筆者の存在の正統性を揺るがすから、公共的観点のみから見て全く望ましくないことは当然としても、自己破壊的側面を有するという意味において望ましくないとする論も理論的に十分理解可能であると思う。
  以上やや補足的側面にも触れたが、本質的に重要なのは、そのブログが如何なる選好を反映しようとしているのか、或いはすべきかについての哲学の模索であり、この哲学は、しかし、経験と演繹の双方から常に自己変革を求められるものである、ということである。本稿に於ける解は可能な限りに於いては最善を尽くされたものではあるが、しかしそのことはこれが最善であることとは、根源的に異なる。従ってより理想的ブログ探究への知的情熱と、実践的ブログ創作への意欲は、遍く後継の全てのブログ執筆者に対して強く望まれるものなのである。

結語
 私がブロガーとして如何にあるべきか、考察する直接の契機となったのは、ブロガーの会に於ける、会長先輩の問いかけであった。会長さんは、その時、いくつかの方面からの意見として、ブログの私物化への懸念と、多様な構成員への焦点化の要請があり、当時の私のブログはその要請に全く適うものではなく、望ましくないとの声が あるとの事実を私に教えてくださった。他方で、私の文体は、私個人が望んだものというよりも、寧ろ当時の同期の要請に答えようと努めた一結果であり、当時少なくとも浅学菲才な私には先輩と同期からの相互矛盾的に思われた要請は、私のブログの方向性に難題を投げかけた。ここで会長さんは私にFの「ブログの哲学」は何かと問いかけたのであるが、私のそれ以降のブログの変遷はこの問いに私的ではあるが解を与えようとする試みとその軌を一にするものであったといえる。ここにまとめたのは不完全ながらも後続のブロガーが参考程度にできれば幸いと考えた個人的指針である。無論この論はなお不完全さの醜態をさらしている感を拭い去ることに失敗している。しかしながら、あの時私のブログの至らぬ点を鋭く指摘くださった方々、並びに、その他多く意見を寄せてくれた先輩や同期、後輩への感謝として、本論は捧げたいと思うものであるし、また本論になお至らぬ点があるのであれば、さらなる指摘は今後の改善に有用であると信じる。であるからして、私が一年を通じて模索して概念化しようとし、そして達成しえなかったブロガーの哲学というものは、指針になると同時にあるべき姿への反定立として定義づけられるべきとの論もやはり否定はできない。結局のところ、いずれであるかは、一個人の手を離れ、より公開的な批判の中で決せられるべきなのである。


追記
 今まで至らないところも沢山ありましたが、いつも支え、励ましたくださった幸松先輩会長さん青木さん山岸さん歴代ブロガーの方々には本当に感謝しきれないほど、助けていただきました。ここまでやってこられたのは、皆さんのおかげです。皆さんの庇護の下にあったからこそブログを書き続けることができました。ブログ担当をやらせていただけたのは、僕にとっての幸せでした。先輩の姿を追って元ブログ担当としての職務も全うしたいと思います。またこれからもよろしくお願いします!!!
これから、ブログ担当の系譜にまた新たな人物が登場することになります!!ということで、次回の投稿で皆さんお待ちかねの期待の次世代ブロガーの紹介をさせていただきたいのですが、何と彼or彼女(どっちかな??)はもう自己紹介の文を書き上げてしまったそうです!!
ということで、僕からの他己紹介は無しで、本人による自己紹介を次の投稿とさせて頂きます!!
さて、僕からの投稿は以上になります!!みなさん一年間ありがとうございました!!

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